創業百年史 海苔一筋 伊藤海苔店
創業者は元々は長野の生まれ?海苔屋さんの意外なルーツ|創業百年史 海苔一筋 伊藤海苔店 四代目 伊藤信吾
㊁伊藤海苔店、四代目 伊藤信吾と申します。
私の曽祖父が海苔商を始めたのが大正12年(1923年)のこと。2023年に創業から100年を迎えます。
その節目に向けて曽祖父が長野から東京に出てきてから現在まで、改めて伊藤海苔店が歩んできた社歴を振り返ってまとめてみました。前編・中編・後編と時代に分けて創業から現在までの歴史をまとめてみました。
編集にあたりご協力いただきました
全国海苔貝類漁業協同組合連合会 様 大森海苔のふるさと館 様 斎藤 悦朗 様
資料などのご提供・ご協力、誠にありがとうございました。
- 寒さ厳しい冬の長野から東京へ
- 農家から海苔への異業種参入
- (補足)長野から江戸へ 行商人の活躍
目次
寒さ厳しい冬の長野から東京へ
私の曽祖父 伊藤知世(ともよ)は明治30年1897年に長野県下諏訪に生まれました。
水源が豊富な諏訪地方は、製糸業や酒造業や農産業が盛んで、それらを江戸へ運ぶ行商人も多かったとされ行商の歴史も古い地域です。
信州諏訪と海苔の歴史も深く、江戸時代後期から「海苔仲間・御湯花講(おゆはなこう)」と言われる海苔の出稼ぎ集団があるほどであった。農閑期の冬場は諏訪の男は東京に出稼ぎに出たそうで、若い人は皆海苔問屋に入り丁稚(でっち)から叩き上げて買い付けができる一人前になることを夢見たと言います。
知世も10代の頃から季節の出稼ぎ人として活躍しました。20歳の頃に上京、明治時代から続く船橋にある海苔問屋へと修行に入り海苔の目利きを鍛えました。
写真:三番瀬の海苔漁の様子 昭和初期 ©️浦安郷土資料館提供
当時の海苔の取引は漁業協同組合(各浜の漁師さんたち)との直接的な取引が主流の時代。
*三番瀬地域 船橋・市川・浦安・葛西
*千葉地域 富津・木更津・五井
*品川地域 品川・大森・羽田・台場・深川
などの東京湾岸を中心に海苔生産業はとても盛んで日本で生産される海苔のほとんどは、東京で生産されており、江戸前寿司の流行とともに高級品として親しまれていました。
農家から海苔への異業種参入
1)良い海苔と悪い海苔を見極める目利きの力
2)直接漁師さんたちと商いをする交渉力
3)海苔を値付けする相場感覚と資金力
が、海苔の取引には非常に重要でありました。知世のような農業が盛んな長野の山間に生まれモノの良し悪しを判別することができ、冬の寒い時期に慣れていた若者たちは海苔業界ではとても重宝されていました。
写真:東京湾の浜買いの様子 昭和初期 ©️海苔とともに 全国海苔貝類漁業協同組合連合会
知世は26歳の時に、自身の目利きを活かして海苔を買い付け、問屋や小売店に売り歩く「海苔商」として独立を決意し、丸二伊藤海苔店を大正12年1923年に東京両国の横網で創業。これが当店 伊藤海苔店のはじまりです。
三番瀬・千葉・品川などの生産者や浜問屋と言われる現地問屋や海苔の生産者などから浜買いで海苔の原料を買い集めて日本橋の大手問屋や大森の海苔問屋にそれを卸す問屋して活躍いたしました。
この頃は、漁連(県単位での漁協の連合組織)が今のように組織されていませんでしたから、海苔を見分ける基準「等級」などの規格は存在しませんでした。自分の目で見た海苔をその場で即断し仕入れそれらを選別し、責任を持って全て売り捌く。冷蔵倉庫などもありませんでしたから、状態がよい海苔の目利きや判断力、相場感覚が問われる仕事だったそうです。
また、旧来の問屋との取引に飽きていた東京湾の海苔生産者の一部は知世の元にも深川などから朝海苔を作って隅田川を舟で渡り直接横網まで海苔を売りに来るようになったそうです。
そうして海苔業界は御湯華講を中心とした長野県出身者の台頭によって発展を遂げていきます。
(補足)長野から江戸へ 行商人の活躍について
皆様ご存知の通り、長野県には海がありません。
しかし前述の通り、長野県出身の海苔屋さんって意外と多いんですね。
ではなぜ、長野県出身の海苔屋が多いのか。
少しこちらで補足的に解説させていただきます。
写真:廿貳 木曾街道 追分(オイワケ)宿 淺間(アサマ)山眺望」 溪斎画
江戸時代の文化年間(1800年頃)から、海苔が採れるのは冬ですから農閑期の時間がある時期には厳しい寒さの中、多くの若者が中山道・甲州街道を辿り、その当時主流であった浅草の問屋へ丁稚奉公に出かけたのが最初と言われていいます。
長野県は農産物の宝庫。これは昔も変わらず、多くの野菜や果物が生産され江戸へと流通されていました。農産物は目で見てその良し悪しを判断しますから(いちいち食べるわけにはいかないですよね!)多くの農産物を見た目だけで良し悪しを検査するいわゆる検査員がいたわけですね。この農作物を目利きする眼力が、海苔の目利きとして目に留まったというわけです。
冬の寒さに強く、元来百姓としての勤勉で真面目な性格であった諏訪人は海苔問屋からの需要がとても大きく、彼らは大森・羽田・品川などの海苔の産地から浅草まで約15kmの距離を、荷物を背負って何往復もしていたそうです。
しかしこの頃の海苔行商どうしは商売敵(がたき)であり、諏訪出身者であってもお互い助け合うことはなかったといいます。そこで各村の出稼ぎ人の代表が約30名ほど集まり文久元年(1861)には「海苔仲間・御湯華講(おゆはなこう)」を発足し、お互いの結束を強めます。今ではこれにに関する文献や書籍も非常に少ないですが、「御湯花講由来―諏訪海苔商団二百年史 」という著書が宮下章氏によって記述されています。
大正末期から昭和初期にかけては約3000人の海苔行商や季節の出稼ぎ人がこの御湯華講に所属したとされており、特に腕を磨いた若者は海苔商として独立して店を持つ者や、東京湾の海苔養殖が埋め立てなどで縮小されてからは、目利きを活かし全国の海苔検査員として諏訪人が活躍しました。
戦後になると、漁協系統期間が共同販売に力を入れて現在に続く入札指定商制度を採用し、浜買い防止につとめ始めました。そのため、地方からの出稼ぎ商売は急速に力を落としましたが、東京の海苔問屋の6割は諏訪の出身者でございまして、御湯華講の組織が海苔業界に与えた影響力の凄さが伺えます。
当店もよく御客様からのお問い合わせなどで間違えられることが多いのですが、大森にも数社 伊藤海苔店さんが存在しており、そのルーツは皆諏訪地方の出身者であります。